任意売却 大阪の結びつき
解説者は理解しやすいコメントを要求されるので、いきおい物事を単純化して白黒をはっきりさせようとします。
すると、大切なことを捨象せざるを得なくなり、論理の大部分を端折ることになりがちです。
結論だけを見せられた我々は、分かりやすいものだけを消化しようとします。
仕事でくたびれた頭には難しいことを消化する余力が残ってないのも事実です。
問題を正しく理解するためには、そもそも何が問題だったのかを詳細に砕いて指摘してもらった方が役に立ちます。
科学技術などのトピックスにも同じことが言えるでしょう。
私が以前に関わっていた金融のデリバティブズの仕事は、専門外の方には極めて理解しにくいビジネスでした。
金融市場での話題が一般的になるにつれ、デリバティブズが一種の悪玉として岨上に上がったことがあります。
極めつけの解説は、良いデリバティブズと悪いデリバティブズ、という区分でした。
こうしたニ分割は、財政赤字や金利上昇などの解説でも用いられるようになりましたが、こうした区分が解説のための正しいやり方だとは思えません。
分かりやすいことが優先される社会では、こうした単純化が圧倒的に優位に立ちます。
現在の金融システム問題も、「分かりやすく」をモットーとしたため、不良債権だけに焦点が当たってしまったように思います。
本当の金融システム問題とは不良債権処理ではなく、銀行を中心とする現在の金融システムが、本質的にビジネスとして成立しながら資金供給機能を果たせるのかどうかです。
しかし、不良債権処理だけに注目が集まり、肝心の点が看過されています。
確かに不良債権は大変な問題ですが、いつの時代にも不良債権は存在しますし、強固な力を誇る米国経済においても不良債権はかなりの金額で存在します。
日本の問題はそれをいい加減に放置してきたことに尽きるのですから、問題解決の出発点は、なぜそれが放置されたのか、その病巣を探ることにあるのではないでしょうか。
では、不良債権はどうして発生したかを考えてみましょう。
まず、景気が悪くなったからだ、という意見があります。
それに対して銀行が不動産の価値を永遠のものだと考えていたからだ、という経営批判があります。
同時に銀行業界が横並びから脱却できず、早期処理を怠った経営の甘さを非難する声がありますし、企業を倒産させない悪平等主義、社会主義的発想によるものだ、という指摘もあるでしょう。
やや専門的に言えば、引当金を積む客観的な尺度が暖昧だった、ということも理由の一つに挙げられます。
間接金融に頼りすぎて直接金融を発展させてこなかったことに原因を求める分析も見られます。
これらの指摘はどれも間違いではありません。
濃淡はありますが、そうした一つひとつが重なって不良債権が山積みになってしまったのです。
このように不良債権問題は様々な要因の結果であり、特定の原因に帰することはできないのですが、そうした個々の現象・事象に共通する一つの横糸があります。
それが、本書で言う「お金の値段」、つまり貸し借りの金利水準と、その変動のメカニズムに対する認識が、貸し手である金融業界にも借り手である産業界にもなかったということです。
いくらで貸すか、いくらなら借りるか、そうした本来的には期待値の判断で値札が決定されるべきメカニズムが全く無視されていた(いまだに無視されている、とも言えますが)のです。
また信用リスクの懸念によってその資産の時価が急落する、という事実にも鈍感でした。
そうした「価格概念の乏しさ」が金融ビジネスの経営に致命的な影響を与えたと言えるでしょう。
期待値の判断と書きましたが、もともとお金を貸すということは相手が弁済できない可能性を考慮に入れて金利を決めることです。
倒産しそうな可能性と、倒産した場合にいくら回収できるか、そうした予測のもとにはじめて金融取引における金利が設定できるのです。
しかし、いまの金融では弁済できない場合には担保を取ることが常習化していますから、こうした本来的な価格決定メカニズムは無視されています。
だから、不動産が下落して担保価値の行方が分からなくなると、お金の貸し方が分からなくなるのです。
これが金融取引の価格(金利設定)概念が乏しいという現実の背景であり、現在の金融システム不安の根底に流れる問題です。
そして、将来も金融ビジネスは私企業として生きていけるかどうか厳しく問われる点でもあります。
価格(貸出金利)設定のノウ八ウがなければ、金融のプロとはいえないでしょう。
一方、貸し手である銀行からは「価格設定ができれば苦労はない」という反論があり、堂々巡りの議論になります。
政府系金融機関が低利貸付を行う、不況で金を借りてくれない、一方で預金が減らない、云々。
ただ、そういう言い訳は単なる職務放棄のようなものです。
自ら、この商売では儲かりませんと敗北宣言しているのと同じで、それを何となく許してしまう土壌も問題でしょう。
現在、各金融機関ではそれぞれ内部で企業の格付けを行い、そうしたランキングに見合った貸出金利設定を行うようなシステムを取り入れています。
ただ、そうした企業努力が、結果として高い運営コストを賄えるような収益増強に必ずしも結び付いていないことも事実です。
このあたりの背景については、また別のところで述べることにします。
ここで、私なりの分析を紹介しましょう。
銀行には伝統的な「融資部門」とマーケットと向き合う「市場部門」があります。
大雑把な分類ですが、収益構造として前者の企業ファイナンス分野でどれぐらい稼いだか、後者のマーケット・ビジネスでいくら稼いだかでその金融機関の経営戦略が明らかになりますし、また銀行のバランスシートをどのように使いながら収益を上げているかを知ることができます。
戦後一貫して日本の銀行が収益を上げてきたのは前者の融資部門であり、市場部門は急速に伸張していますが、無限大のバランスシート拡張路線に基づいた融資部門の収益力には及びません。
市場部門において一九八○年代にデリバティブズ業務が誕生したとき、邦銀は一つの転機を迎えていました。
市場部門に基づく投資銀行分野への転換の可能性です。
大手邦銀の中には、公然と投資銀行分野への戦略転換を宣言する銀行がいくつか現れました。
しかしながら、その実態は伝統的商業銀行ビジネス、即ち融資部門を主流とする古いビジネスモデルから脱却したものではありませんでした。
詳細は後述しますが、市場部門のビジネスは金融における時価という概念を意識せざるを得ません。
市場では毎日が価格との勝負であり、デリバティブズ取引ではすべての金融取引が時価で表現できるからです。
大手邦銀の意識は、伝統的な商業銀行取引が時代遅れのぬるま湯に浸っていることを察知してはいましたが、保守的な会計制度に守られた伝統的業務は変化しませんでした。
それは一九八○年代後半、ちょうど金融機関のリスク管理が厳しく問われるような時代と軌を一にします。
経営は、市場リスクの管理を厳格化するほどに信用リスクの管理を厳しく要求しなかったのです。
収益の振れやすい新規の事業部門には厳しく、伝統的な本流事業部門には甘くならざるを得なかったと言えます。
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